春は、いつだって少しだけ残酷だ。
柔らかな風に包まれながらも、何かが終わり、何かが始まる季節。
出会いと別れが同時に訪れるこの季節は、まるで人の心を試すかのように、静かに、そして確実に運命を動かしていく。
――あの日も、そうだった。
高校三年の春。
校門の脇にある桜並木は、まるで祝福するかのように満開だった。
「すごいな、今年の桜」
俺――藤原悠斗は、ぼんやりと空を見上げながら呟いた。
その隣で、ふっと笑う声がした。
「毎年同じこと言ってるよね、悠斗」
振り向くと、そこには幼なじみの相沢紗奈がいた。
肩まで伸びた黒髪が風に揺れ、桜の花びらがひとひら、彼女の髪にそっと乗る。
「だって、毎年すごいだろ」
「はいはい。感受性豊かで結構ですね」
そう言いながらも、彼女はどこか嬉しそうだった。
俺たちは小さい頃からずっと一緒だった。
同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、そして同じ高校。
当たり前のように隣にいる存在。
それが、紗奈だった。
「ねえ、悠斗」
ふいに紗奈が口を開いた。
「どうした?」
「もしさ……私たち、違う道に進んだらどうなるんだろうね」
その言葉に、俺は少しだけ言葉を失った。
「……急にどうしたんだよ」
「別に。ただ、考えただけ」
彼女はそう言って、また空を見上げる。
桜の花びらが舞う中で、その横顔はどこか遠くを見ているようだった。
数日後。
進路希望調査の紙が配られた。
俺は迷わず地元の大学を書いた。
理由は単純だ。特別やりたいこともなかったし、何より――
「紗奈と一緒にいられる」
それが、どこかで前提になっていたからだ。
だが、彼女の紙をふと見た瞬間、俺の手は止まった。
「……東京?」
思わず声に出してしまった。
紗奈は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「うん。前から決めてたの」
「聞いてないぞ」
「言ってなかったもん」
あっけらかんとした口調。
けれど、その奥にある何かを、俺は感じ取っていた。
「なんで……」
「やりたいことがあるの」
彼女はまっすぐ俺を見た。
「デザインの勉強、ちゃんとしたくて。東京の学校に行きたい」
その目は、今まで見たことがないほど真剣だった。
それからというもの、何かが少しずつ変わり始めた。
一緒に帰る時間が減った。
話す内容も、どこか表面的になった。
「なあ、本当に行くのか?」
ある日の帰り道、俺はついに聞いた。
「うん」
「……地元じゃダメなのか」
「ダメじゃない。でも、私は東京でやりたいの」
その言葉は、はっきりしていた。
「悠斗は?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
俺には、彼女みたいな強い理由がなかった。
「……地元の大学」
「そっか」
それだけ言って、紗奈は微笑んだ。
でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。
卒業式の日。
体育館の外では、桜が咲き始めていた。
満開には少し早い、けれど確かに春を感じさせる景色。
「終わっちゃったね」
校舎の前で、紗奈がぽつりと呟いた。
「そうだな」
「変な感じ」
「何が?」
「ずっと一緒だったのに、これからは違うんだなって」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「なあ、紗奈」
「うん?」
「行くなよ」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「……え?」
「東京なんて行かなくていいだろ。ここでもできることあるし……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ、失いたくなかった。
紗奈はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……それ、本気で言ってる?」
「本気だよ」
「……嘘」
その一言は、静かだった。
「悠斗、自分でもわかってるでしょ?」
「……」
「私が行きたい場所、ちゃんと見てない」
彼女の目は、少しだけ潤んでいた。
「止めてほしいんじゃないの。応援してほしかったの」
その言葉に、何も返せなかった。
しばらくの沈黙のあと、紗奈はふっと笑った。
「でもね、悠斗」
「……なんだよ」
「ありがとう」
「え?」
「止めてくれて」
その笑顔は、どこか優しかった。
「ちょっとだけ、嬉しかった」
そう言って、彼女は一歩後ろに下がる。
「じゃあね」
「……ああ」
「元気で」
「お前も」
それだけの会話。
それなのに、どうしてこんなにも重いのだろう。
数日後。
駅のホームで、俺は一人立っていた。
紗奈の乗る電車が、もうすぐ来る。
「来なくていいって言ったのに」
振り返ると、彼女が立っていた。
「最後くらいな」
「そっか」
二人で並んで、電車を待つ。
春の風が吹き、また桜の花びらが舞った。
「なあ」
「うん?」
「東京行っても、連絡しろよ」
「するよ」
「絶対だからな」
「しつこい」
そう言って笑う紗奈。
その笑顔を、俺はずっと忘れないと思った。
やがて電車がホームに滑り込んできた。
「……行くね」
「ああ」
ドアが開く。
彼女は一歩踏み出して、ふと振り返った。
「悠斗」
「ん?」
「また、春に会おうね」
その言葉は、約束のようだった。
「……ああ」
「約束だよ?」
「約束だ」
彼女は満足そうに頷き、電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。
その姿が小さくなっていく。
俺はただ、見送ることしかできなかった。
一年後の春。
同じ桜並木の下で、俺は立っていた。
あの日と同じように、花びらが舞っている。
「……遅いな」
時計を見る。
約束の時間は、もう過ぎていた。
それでも、俺は待ち続けた。
――彼女が来ると、信じて。
やがて、遠くから駆けてくる人影が見えた。
「ごめん!遅れた!」
聞き慣れた声。
振り向くと、そこには――
少し大人びた紗奈が立っていた。
「……遅い」
「電車遅れててさ」
「言い訳かよ」
「うるさい」
二人で笑う。
あの日と同じように。
「ねえ、悠斗」
「なんだ?」
「ちゃんと、来てくれたね」
「当たり前だろ。約束だからな」
そう言うと、彼女は少しだけ照れたように笑った。
「……よかった」
春の風が吹く。
桜の花びらが、また二人の間を舞った。
出会いと別れを繰り返しながら、それでも人は前に進んでいく。
そしてまた、新しい春が訪れる。
「なあ、紗奈」
「うん?」
「来年も、ここで会うか」
「……うん」
その答えは、優しく、そして確かだった。
春は残酷で、でも優しい。
それはきっと、終わりと始まりが同時にあるからだ。
俺たちはまた、歩き出す。
それぞれの道を。
それでも、また出会うために。
――桜の下で。
桜の花びらは、いつの間にか風に乗って遠くへと運ばれていた。
さっきまで確かにそこにあったはずなのに、気づけば枝にはわずかな色しか残っていない。
まるで、あの時間そのものが夢だったかのように。
「もう、散っちゃうね」
紗奈が小さく呟いた。
「ああ」
短い返事。
けれど、その中には言葉にできないものがたくさん詰まっていた。
二人で並んで歩く帰り道。
去年とは違うのは、互いに少しだけ変わったこと。
そして――また、別々の場所へ帰っていくという現実。
「明日、帰るんだろ?」
「うん。朝早い電車」
「そっか」
また、あの時と同じような会話。
けれど、あの頃とは違っていた。
無理に引き止めようとは思わなかった。
彼女の選んだ道を、ちゃんと理解しているから。
そして、自分もまた、自分の場所で歩いているから。
「ねえ、悠斗」
「ん?」
「また、来年も来れるかな」
その言葉に、少しだけ間があいた。
未来は、約束できるものじゃない。
それを、もう俺たちは知っている。
それでも――
「来るだろ」
俺は空を見上げながら言った。
「来なかったら、迎えに行く」
「なにそれ」
紗奈が笑う。
その笑い方は、昔と変わらない。
「でも、いいね。それ」
「だろ?」
「じゃあ、約束ね」
彼女はそう言って、小指を差し出した。
子どもの頃、何度も交わした約束の形。
俺は少しだけ迷ってから、その指に自分の小指を絡めた。
「約束」
「約束」
風が吹く。
最後の花びらが、ゆっくりと空へ舞い上がった。
翌朝。
駅のホームには、春の名残がまだ残っていた。
「ほんとに来たんだ」
「見送りくらいするだろ」
「去年も同じこと言ってたよね」
「うるさい」
軽口を交わしながら、電車を待つ。
けれど、心の奥ではわかっていた。
この時間が、また終わることを。
アナウンスが流れる。
電車がゆっくりとホームに入ってくる。
「……行くね」
「ああ」
ドアの前で立ち止まる紗奈。
一瞬だけ、何か言いたそうにして――
「悠斗」
「ん?」
「ありがとう」
それだけを残して、電車に乗り込んだ。
ドアが閉まる。
走り出す電車。
遠ざかっていく姿。
去年と同じ光景。
だけど、違うのは――
今度は、ちゃんと笑って見送れたこと。
静かになったホームに、風が吹く。
ポケットの中で、小さく握ったままの指先。
さっきの約束の感触が、まだ残っていた。
「……またな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
その声は、春の空に溶けていった。
そして、季節は巡る。
出会いと別れを繰り返しながら、時間は進み続ける。
それでも――
あの日、桜の下で交わした約束は、きっと消えない。
たとえ距離が離れても。
たとえ会えない時間が続いても。
春になれば、思い出す。
あの場所を。
あの時間を。
あの人を。
そしてまた、歩き出す。
それぞれの未来へ。
桜は散る。
けれど、記憶は散らない。
終わりは、始まりの形をしている。
だから――
きっとまた、会える。
あの桜の下で。

